朝の散歩で出会った石碑 ー「献櫻百五拾株」と福玉仙吉の名

目次

朝の散歩で出会った石碑

参道わきの石灯籠のあいだに小道が現れる

朝の北海道神宮ラジオ体操会の帰り道、参道沿いの茂みに細い道のようなものを見つけ、奥へと進んでいくと石碑を見つけました。
そこには、こう刻まれていました。

「献櫻百五拾株 島判官従者 福玉仙吉」と刻まれた石碑

献櫻百五拾株 島判官従者 福玉仙吉

折れたのを修復された跡がありますが、丁寧に彫り込まれたその文言は、朝の木漏れ日に照らされ、しっかりと読み取ることができました。
何かを語りかけてくるような佇まい。島判官・福玉仙吉・桜・神宮がどのような関係があるのかなと思い、調べてみました。

島判官と、福玉仙吉という人物

私が知っている範囲では ーー

島判官とは、明治初期に札幌のまちづくりを構想した人物、島義勇(しま よしたけ)のこと。
佐賀藩出身の彼は過去に蝦夷地(北海道)を探検・調査した実績があり、蝦夷地に詳しいということで開拓判官として明治2年秋、札幌に入りました。

「コタンベツの丘」という場所(おそらく円山公園、神宮、円山付近)から東に広がる原野を見渡し、まちの起点を定め、碁盤の目状の区画や街路樹など近代都市としての札幌の骨格を考えた人物です。

けれど、理想に対して予算が大きく膨らんだことから責任を問われ、翌明治3年3月、明治政府により解任されてしまいました。札幌には数ヶ月しかいられなかったのです。
札幌を去ってからは、本州で過ごし、最終的には佐賀の乱に巻き込まれ刑死するという波乱の最期を迎えました。


福玉仙吉という人物は、島判官に付いて明治2年(1869年)に江戸から札幌に来ました。発寒(はっさむ)という地区に住み、島判官の従者として尽力されたひとりです。(西野神社HPより)
島判官が解任され札幌を離れたあとも、福玉仙吉は発寒に残って農業をしていたそうです。

桜を奉じた福玉仙吉

その島判官の死を知り、深く悲しんだのが、従者だった福玉仙吉という人物です。

彼は、亡き島義勇を悼むために、自ら桜の苗木を150本集めてきて、明治8年(1875年)当時の札幌神社(現:北海道神宮)に奉納したと伝えられています。

神社の参道に咲き誇る桜並木 ーー
それはただの「名所」ではなく、ある人の想いによって植えられ、育てられてきたものだったのですね。

北海道神宮 参道の桜並木(2025/5/1撮影)

記憶を刻む、静かな言葉

あの石碑には、それ以上のことは書かれていません。
でも、「献櫻百五拾株 島判官従者 福玉仙吉」という、たった3行に
主人への想いと土地への祈りが、確かに込められているように感じました。

誰かを想って植えられた木が、100年以上の歳月を経て、
今もこの場所に花を咲かせているということ。

それを知っただけでも、参道の桜の風景が少し違って見えるような気がします。

今年の桜は見頃を逃してしまったので、来年はじっくり愛でようと思います。

おわりに

今回の石碑のことも、たまたま朝の散歩で出会わなければ、気づかずに通り過ぎていたかもしれません。

街のなかには、まだ知らない歴史や人の想いが形となって、静かに残っているんだなと感じました。


ここに限らず、この街にはこんなふうに静かに過去を伝える”記憶”が、まだたくさん残っているはずです。


またどこかで、こういうものに出会えたら、少し立ち止まってみたいと思います。

目次